『ツーリズムとポストモダン社会』須藤廣(2012)明石書店

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管理者Sの読書録 #6

観光を通してポストモダニズム文化を読み解く

観光社会学もまた、観光が持つ記号という〈虚構〉がオリジナルを正しく代理しているかどうかを〈本ものらしさ〉の基準にするのではなくて、オリジナルと記号との対応関係が人々にどれくらい「信じられ」ているのかを〈本ものらしさ〉の基準とし、その信憑性がどのように変容するのかを問おうとする。観光には「本もの」が求められているのではなくて、〈本ものらしさ〉が求められているのである。

須藤廣(2012)『ツーリズムとポストモダン社会』

著者の須藤廣先生は、わが国における観光社会学(理論研究)の権威たる方で、これまで観光社会学に関する多くの論文・著作を世に出されてきた先生です。これまで私も、須藤先生の論考を引用に使わせて頂いていますし、現代観光を後期近代論を引用しながら鮮やかに描き出すお仕事に尊敬の念を抱いています。本書『ツーリズムとポストモダン社会』は、(ウェーバーの影響を受けていると思われるが)伝統社会における宗教の「超越性」が消滅した現代観光が、「自己言及的で人工的」なものになっていること、言い換えると現代観光の対象が「疑似アウラ」を纏っているという点を軸にしながら、観光地空間における文化表象や観光地住民の集合的アイデンティティに焦点を当てた一冊になっています。生憎、私は社会学理論に明るくないため、本書で多用されていたギデンズ、ラッシュ、リッツァ、アーリらの理論使用が適当かどうかは不明ですが、兎にも角にも、「虚構性」を帯びた観光地空間で生起するホスト/ゲストの関係や観光客の「まなざし」の変化に議論が集中していた印象です。

本書の軸ですが、まず日常と非日常の関係性が融解しつつあるというアーリの「観光の終焉」論がキーになっており、地域が観光地としての持続可能性を持つために、すなわち「観光の終焉」なる事態になるぬように、観光地空間では常に虚構による再構成、「街の〈再魔術化〉」が行われていることが指摘されています。かかる指摘の背景には、伝統社会に存在した地域の固有性が近代化政策によって均質化されたこと、また他方で均質化に対する反省に基づいて「固有の地域性」らしきもの(「疑似地域性」)が演出されるようになったことがあるとしています。

前近代から近代へと引き継がれた観光対象の超越的な「アウラ」は、「超越性」という点において、その性格が大きく変わったというのが筆者の見方である。超越的で、固定的な「アウラ」はより流動化し、観光対象は広がりつつあり、また自己言及性、人工性を持ちつつある。観光対象の「アウラ」はより自己言及的で人工的な、すなわち、作られた「アウラ」に変わりつつある。ここには「超越的」なものであるという固定的で集合的な信念は乏しく、人工的に作られた「超越的な『アウラ』」のようなもの、すなわち「疑似アウラ」とでもいうべきものが現れる。

須藤廣(2012)『ツーリズムとポストモダン社会』

かかる指摘は、現況の観光地域づくりや観光まちづくりの動きに対する批判的視座であると思われますが、90年代頃から隆盛したわが国におけるアストロツーリズムの動き、すなわち星空という新たな観光資源の「『発見』や創出へと応用されていった」流れが、論理的に説明できる行論になっていました。

加えて、ツーリストにおけるまなざしの変化も見逃せず、彼/彼女らは真正性を求めつつも、観光地空間が虚構性を帯びていることも承知しているという、まなざしの両義性があることが指摘されています。こうした観光地側と観光客側の共犯関係によって観光需要は生み出されているのであり、そこにアーリの「観光の終焉」論を超越しようという、著者の野心的な目論見が垣間見えました。用いられている語は専門的でかつ多様ですが、論調としては概ねここで書いた内容が繰り返されていた印象です。

本書の指摘そのものは極めて興味深いのですが、実証性の欠如という観光社会学研究にありがちな問題点があったことは拭いきれません(映画の感想だけで2章も割かれていたのは驚きました)。本書が立脚している「伝統社会/近代社会」の二項対立ですが、伝統社会への回帰を希求しているかのごとく記述が目につきますし、かかる二項対立を支えている実証的な記述が、欧米圏における理論書の引用と「伊勢参り」だけというのは、あまりにも危うい感じがします。例えば著者は、ポストモダニズムの映画の特徴を「パスティッシュ」に求めていますが、古典西洋芸術においては「パスティッシュ」が量産され「個性」が抑制されていたわけで、かかる現象を「ポストモダン」特有と決めつける著者の姿勢には疑問を感じざるをえませんでした。また伝統社会と近代社会を分節するような、言い換えると歴史の連続性を捨象する行論は、時代区分を恣意的に一括りにする行為に他ならず、本書の主眼である「多義性」「多様性」を著者自身が取りこぼしているかのように見えます。同様に、本書2章でアーリの「集合的まなざし」と「ロマン主義的まなざし」の議論が展開されていますが、ここでは「集合的まなざし」を持つのはマス・ツーリスト、「ロマン主義的まなざし」を持つのは知識人であるという前提に立脚し、リチャードたちが「ロマン主義的まなざし」を持っているはずだと著者が一方的に決めつけている観が否めませんでした。「多様性」「多義性」を叫んでいる一方で、こうした著者による決定論的な記述には問題を感じざるを得ません。ここら辺はポストモダン論にありがちな話で、近代批判をすればするほど近代論の陥穽に嵌ってしまうという、何とも皮肉な結果になっている観は否めません。

批判的な論評になりましたが、本書を通してなるほどと感じた点も多くありました。須藤先生のお仕事を引き継げるような、観光の理論研究をさらに前進させられるような観光研究者が現れることが期待されるところです。

『ツーリズムとポストモダン社会―後期近代における観光の両義性―』(須藤廣)の感想(3レビュー) - ブクログ
『ツーリズムとポストモダン社会―後期近代における観光の両義性―』(須藤廣) のみんなのレビュー・感想ページです(3レビュー)。作品紹介・あらすじ:後期近代は「自然」が消失した社会で、そこでは「観光」は市場が全面化するにおける「人工的」なサービス商品としての構造と性格を有する。本書は「観光」がいかに消費主義に席巻されてい...
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