管理者Sの読書録 #10
20世紀初頭アメリカにおける消費文化の変容と余暇の誕生
かつて小企業家がもっていた労働倫理や、労働を通じてえた価値や技能で生活全般を規律づける職人の誇りが欠如していたことは、まちがいなかろう。労働の喜びなどは、どこを探してもみあたらない。労働の成果からきり離された彼らは、労働と他の生活領域とのあいだに本質的な相関性を見失った。真の生活の意味は労働以外の場に発見せざるをえず、労働はそのための単なる手段にすぎなくなる。つまり、労働の価値を決定するのは労働そのものではなく、労働によって可能になる消費や余暇の量と質ということになる。
常松洋(1997)『大衆消費社会の登場』
本書『大衆消費社会の登場』は、20世紀初頭におけるアメリカを舞台に、フォードを中心とした大量生産を可能にする労働環境の変化、およびそのことで生じた伝統的階級の変化ないし消費文化の変容に焦点を当てた一冊です。著者によると、大量生産が可能になった19世紀末からのアメリカでは、女性を含む「ホワイトカラー」「中産階級」なる階層を増加させましたが、その一方で、人々に「自分たちは労働者なのか、中産階級的サラリーマンなのか」というアイデンティティの混乱をもたらしたと言います。大量生産社会の台頭によって生じた伝統的な価値観(ヴィクトリアニズム)の変容は、娯楽を中心とした新たな消費文化、すなわち「大衆消費文化」を生むことに繋がったという行論になっていて、当時のアメリカ社会について包括的な論が展開されていました。本書全体は80頁弱なのですが、論理の一貫性、随所に見られる資料の濃密さ、コンパクトな文献引用による内容の簡潔性、ジェンダー論への言及など、著者の仕事ぶりには頭が下がります。
個人的に興味を持ったのは、下記の指摘です。
電気照明は闇を追いはらい、かつては危険だった都市の夜を、新たな余暇時間に変えた。人工的に照らされた街の通りは、人びとを暗い住宅(一般家庭の本格的な電化は二〇年代のことである)から戸外に連れ出した。電気照明は、仕事時間の終わり、余暇時間の始まりを画した。電気は、夜の外出をより安全で刺激的にしただけではない。市街電車を普及させることで、容易で安価なものにした。これらの恩恵をだれより享受したのが、肉体的消耗度が相対的に低い新旧の中産階級だった。
常松洋(1997)『大衆消費社会の登場』
著者によると、アメリカにおける余暇社会誕生の背景には、科学技術の発達、とりわけ電気照明の発達に起因する部分が大きいと言います。労働時間の短縮に伴う余暇時間の増大は、人びと(中産階級)に「夜」へのまなざしを向けることに繋がったわけですが、それを可能にしたのは、当時進んでいた電気照明の発達にあったというわけです。これをアストロツーリズムの文脈に逆照射すると、電気照明によって照らされた場所を忌避する大衆行為、皮相的に言うと、伝統社会で「危険」とされていた空間への希求が体現されたのがアストロツーリズムということになります。照明の発達によってマスツーリズムに表象される大衆消費社会が顕現したのであれば、照明の発達に伴う光害の顕在化がアストロツーリズムを「大衆化」させたと、その文脈を接続させていくことが可能でしょう。上記の部分を読みながら、やはりアストロツーリズムなるものが、極めて現代的な現象であることが看取された気がしました。
