管理者Sの読書録 #11
観光研究という「疑似イベント」—現代に通ずる鋭い視座
われわれの意識に押しよせてくる疑似イベントは、昔ふうの意味では本物でもなければ偽物でもない。疑似イベントを万能にした技術的進歩が、イメジをして——それがいかに計画され、こしらえ上げられ、あるいはゆがめられたものであるにせよ——現実そのものよりも、よりいきいきと、より魅力的で、より印象深く、より説得力を持つものにしているのである。
Boorstin, D. (1962), 『幻影の時代』[星野郁美訳]
本書『幻影の時代』は、観光学系大学に所属する学生であれば、間違いなく知っているであろう著作の一つです。本書が周知されている背景として、人文社会系の観光研究が整備される以前に観光に対する鋭い視座を呈していた点、その後の観光研究において本書が批判され続けている点などが挙げられますが、いずれにせよ、観光研究の古典と言える一冊であることは間違いありません(ただしブーアスティンは、あくまで「疑似イベント」の事例として観光を取り上げているにすぎないため、実証的な論考であるとは言えない代物です)。
ところで、観光学系大学に6年も所属している僕ですが、今まで本書を通読したことがありませんでした。さすがにマズいのではとの思いから、今しがた読破したところです。
取り上げられている事例が古い点、行論が粗すぎる点、またあらゆる事象に「疑似イベント」を当て嵌めすぎている観は否めないものの、現代社会批判に通ずる鋭い視座が提示されていますし(写真・カメラの役割、VR観光・宇宙観光に通ずる議論もあった)、所々に目を見開かされる行論が看取されました。1962年に書かれた著作であることに鑑みれば、ブーアスティンの先見の明には驚かされましたし、より評価されて良い著作なのではと思います。
本書は、1900年代から1960年代までの米国を舞台にした議論が展開されます。ブーアスティンに先見の明を感じたのは、彼が後のポストモダン論(消費社会論、ポストコロニアリズムなど)に通ずる議論を一早く俎上に載せている点にあります。まず彼は、本書の立脚点を、当時のアメリカ人が抱いていた飽くなき「期待」と19世紀に起きた「複製技術(グラフィック)革命」に求めています。本書冒頭では、以下の指摘がなされています。
世界がわれわれに与えることができる以上のものを期待し、われわれが実際に変え得る以上に世界を変えようと期待することによって、われわれはみずからを苦しめ、不満に落し入れている。われわれは自分に語りかけ、自分のために書き、写真を撮り、商品を作る人のすべてが、自分と同じようにとほうもない期待の世界に住むことを求める。(中略)われわれは幻影を要求する。もっとたくさんの、もっと大きな、もっとすぐれた、もっといきいきとした幻影がつねに存在していることを要求する。幻影はわれわれが作り出した世界であり、イメジの世界である。
Boorstin, D. (1962), 『幻影の時代』[星野郁美訳]
かかるブーアスティンの言説は、ボードリヤールをはじめとする消費社会論を彷彿とさせます。つまり、物質的な豊かさ(=「理想」)は十分享受できているにも拘わらず、彼/彼女らの欲求(=「期待」)は幾何級数的に膨れ上がり続ける。そこで彼/彼女らの「期待」のフロンティアになったのが、物的豊かさに表象されるリアリティではなく、ブーアスティンが「イメジ」や「幻影」と表現する虚構の世界であったというのです。これは、現代社会の人々が「差異の体系」に満ちた「シミュラークル」の世界を彷徨い続けているというボードリヤールの議論に通ずる指摘です。ブーアスティンの言説を追っていくと、随所にボードリヤールを彷彿とさせる行論が看取されます(eg., 「有名人は主として個性の些細な表現によって分化する。(中略)したがって芸能人こそは、彼らの個性を他の人とはごくわずかばかりの異なった仕方で表現することに熟達しているがゆえに、有名人になれる一番適した資格を持っているといえる」)。谷川(2019)は、実際のボードリヤールは、かかるブーアスティンの影響の下で理論を構築したことを指摘しています。
またブーアスティンは、冒頭で、「私は『現実』とはなんであるかを記述することができない」と留保しつつも、以下の指摘をしています。
オリジナルはその独創性(オリジナリティ)を失っているのである。複製のほうがはるかに親しまれている。本当に人気があるのは複製のほうだけなのだ。このほうがわれわれを喜ばさせてくれることすらある。(中略)われわれの見方からすれば、芸術家の真に民主主義的・人道主義的な「人生を豊かにする」目的を果たしているのは、オリジナルではなくて複製のほうであることが、ますます多くなっているといえる。われわれに意味をもって語りかけてくるゴッホの『日まわり(原文ママ)』は、美術館にかかっているオリジナルではなくて、学校の教室にかけてある複製なのである。
Boorstin, D. (1962), 『幻影の時代』[後藤和彦訳]
われわれの心性が、今や「オリジナル」へのまなざしではなく、コピーを重視する意識へと変化しているとのブーアスティンの指摘は、その後の「ポストツーリスト」をめぐる議論の下敷きのようなものです。かかる指摘を1962年時点でしていたことには、真に驚かされました。
また、その後の観光研究で批判されることになったブーアスティン批判の内容を見ていくと、いかに的外れなものであるかが看取されます。ブーアスティン批判で最も知られるのは、『ザ・ツーリスト』の著者マキャーネルでしょう(ここで一言しておくと、ブーアスティンはゴフマンの「表舞台/裏舞台」に通ずる議論を展開しており、その意味で見れば、以下で見るマキャーネルの「演出された真正性」なる概念は、ブーアスティンの影響を多分に受けて導出したと思われる)。マキャーネルは、ブーアスティンを次のように批判します。
Boorstinの考察は、観光の編成のされ方について深いところまで抉りだしている。しかし、彼は「疑似イベント」の概念を充分に分析することなく個人的批評にとどまっており、観光の構造分析へと展開していける可能性を開花させずに終わっている。彼は、ツーリストたちが「疑似イベント」を生みだしていると主張している。(中略)しかしながら、ツーリストの観察から私が収集したものの中には、ツーリストが表層的でわざとらしい経験を欲しているというBoorstinの主張を支持するものは何一つなかった。むしろツーリストたちは、Boorstinの言うところのオーセンティシティを望んでいるのだ。結局Boorstinは、ツーリストと知識人を完全に分け隔ててしまおうと考えているのである。
MacCannell, D. (1973). Staged Authenticity. American Journal of Sociology. 79(3), pp. 589-603. [遠藤英樹訳]
マキャーネルによるブーアスティン批判が的外れと思われるのは、次の2点です。まず第一に、これは先述の通り、ブーアスティンは「私は『現実』とはなんであるかを記述することができない」と留保しており、本書の行論においても「現実とは何か」を描くこと対して極めて慎重な姿勢を取っています。したがって「むしろツーリストたちは、Boorstinの言うところのオーセンティシティを望んでいるのだ」とのマキャーネルの指摘そのものが、用をなしません(そもそもブースアスティンが観光を取り上げているのは、「疑似イベント」を説明するための言わば副産物的な位置づけにすぎず、ここまで批判される筋合いがあるかも不明ではあります)。
第二に、「ツーリストが表層的でわざとらしい経験を欲しているというBoorstinの主張」との批判も、本書全体を通読すると的外れであることが分かります。例えばブーアスティンは、次のような記述をしています。
政治家や有名人の公の行動がますます人工的に仕組まれたものとなりつつある世界では、われわれは、われわれ自身の利益のためにとくに作り出されたものではない出来事をますます熱心に求めるようになる。われわれは、疑似イベントという癌に免疫である生活の領域を捜し求めるのである。
Boorstin, D. (1962), 『幻影の時代』[後藤和彦訳]
前後の行論はさて置き、かかる記述を見れば、現代の人々が「疑似イベント」に満ちた現代社会から逃れるために「オーセンティシティティ」を強く求める心性を持っているとの指摘になっています。したがって必ずしもブーアスティンが、「ツーリストが表層的でわざとらしい経験を欲している」とは考えていないことが看取されます。再三記述した通り、ブーアスティンは「現実とは何か」を描くことに対して極めて慎重な姿勢を取っていますから、第3章の内容だけを切り取って、一面的な批判を展開するマキャーネル以降の観光研究の潮流には、疑問を呈さざるを得ません。
否むしろ、こうした観光研究によるブーアスティン批判そのものが、「疑似イベント」なのかもしれません。ブーアスティンは、疑似イベントの特徴として「幾何級数的に他の疑似イベントを生み出す」点と、リースマンの言う「他人指向型人間」を増殖させる点を挙げています。虚構を練り上げて欲求を満たそうとする現代社会を「疑似イベント」と名付けたブーアスティンは、人文系特有の「言った者勝ち戦法」で、マキャーネル、コーエン、アーリらによって綿々と批判され続けてきました。彼らの指摘が正しいかはさて置き、「虚構」を取り上げたブーアスティンを、一面的な見方で、論理戦法という実証性に基づかない〈虚構〉を通して「幾何級数的」に批判され続けてきたことに加え、人文系観光研究を牽引してきた彼らの言質に「他人指向的」に同調した入門書が執筆され続けてきたという事実を重ね合わせると、結局は、観光研究そのものが「疑似イベント」に陥っている観がしてきます。やっぱり、ブーアスティンは偉かったんだと。
終りに、ブーアスティンの晩年について触れておこうと思います。輝かしい業績を持つブーアスティンですが、彼の晩年は「保守主義史学派」のレッテルが貼られ、修正主義者から批判を浴びることになったと言われています。実際、以下の動画を見ると、彼がマイノリティに対する配慮が足りていないとの批判がなされています。
確かにブーアスティンは、こうしたマイノリティを踏まえた議論が十分でないかもしれません。しかし彼の仕事を包括的に見ると、よりメタな歴史について、すなわちアメリカ社会構築のプロセスの全容を描くといった極めて壮大な仕事をしている観があります(無論、マイノリティ研究をすることが「小さなこと」であると言いたいわけではありません)。「保守主義史学派」のレッテル貼りも、結局は一面的な見方でしかないような気がしてならないわけです。
参考
★高岡文章(2001)「観光研究におけるD. ブーアスティンの再定式化」『慶応義塾大学大学院社会学研究科紀要』53, pp. 69-78 も参照されたい。
