『流星ワゴン』重松清(2005)講談社

Blog
この記事は約3分で読めます。

管理者Sの読書録 #26

昭和と平成における家族の形

 重松清氏らしい、感動の一冊だった。たまには小説も読まないと、頭が摩耗してしまう。

 斎藤美奈子氏が「解説」で指摘するように、本書は、家族社会学の分析に打って付けの一冊でないかと思う。主人公の永田一雄は、昭和30年代後半生まれの営業マン(妻の美代子も同い年)。年代はLabボスの尾久土さんとほぼ同じで、管理者の父親の一世代上にあたる。父親の忠雄は昭和10年代前半生まれで、瀬戸内で不動産からサラ金まで幅広く手掛けた実業家。一雄の息子である広樹は平成1桁生まれで、管理者の一世代上の年代に当たる人物である。

 本書内ではとかく「現実」の単語が頻発するが、この3人が観念する「現実」の捉え方は、微妙に違う。まず忠雄は、ひたすら「理想」に生きている。「気に入らないものは、嫌い」であり、自分の理想にそぐわないものは暴力で片を付ける。そこには、存在論としての「現実」がある。一雄は「夢」に生きている。理想的な家族を夢見心地で享受し、結局は破壊される。実際に彼は、「夢」の中で「現実」をやり直している(だから忠雄が「魔法」と言うと、違和感を覚えたのである)。そこには、認識論としての「現実」が幅を利かせている。広樹は「虚構」に生きている。理想に敗れた広樹は、虚構の中で自分の殻に閉じ籠り、忠雄とは異なる、自己における合理的判断を欠いて、過度な暴力行為に走っている。見田宗介や大澤真幸(『不可能性の時代』)の議論と合致した現実感が、本書には体現されている。

 ただ主人公の一雄も、妻の美代子も、「虚構」の家族を演じている。昼はテレクラの情事に現を抜かす美和子は典型的だが、一雄も、表層的な問題解決にだけ執心し、自分の本音を押し殺して、広樹に声をかけている。そこには同時に、一種の「ナルシスト観」が表出している。「やり直しの現実」でその一部が解消され、「虚構」ではない「現実」を取り戻すことで、一雄家族の再生が描写されているが、一雄のナルシスト観は拭い切れない。この一雄の「ナルシスト観」、管理者にもよく思い当たる節があるので、余計に共感できたのかもしれない(一方で、一雄の美代子への当たりがキツイように、女性読者からは共感を得られないかもしれない)。

 管理者の現実の家族を思い起こすと、「虚構の果て」のような、そんな家族だったようにも思えてくる。父親の威厳などどこにもない、友達のような関係。でも、お互い腫物に触らぬよう、気遣いしながら家族を「演じてきた」向きがある。気のあうことだけを語り合い、その他は知らぬふり。「父親の背中」など感じたこともなければ、一雄や広樹のように父親に反抗したこともない。学校の友達関係がそのまま家族空間にも延長されたような、そんな関係であったように思う。今思えば、本音というのがよく分からない関係しか築いてこなかったことが、人間関係の構築の仕方を難儀にさせているように思えてくる。

 終わりに、本書における健太の扱いに疑問を感じるところ。オデッセイに乗車する一雄、忠雄、橋本さんは、角度は異なるものの「現実」を受け入れて、夢の世界から現実へと帰っていく(帰ろうとしている)。しかし健太のみ、結局「成仏」できずにオデッセイに戻ってきてしまう。個人的には、健太も橋本さんも成仏し、一雄と忠雄が「現実」に戻るという筋書きが良かったが、ここらへん、どうもしっくりこなかった。解説コメントをお願いします。

『流星ワゴン (講談社文庫)』(重松清)の感想(2444レビュー) - ブクログ
『流星ワゴン (講談社文庫)』(重松清) のみんなのレビュー・感想ページです(2444レビュー)。作品紹介・あらすじ:死んじゃってもいいかなあ、もう…。38歳・秋。その夜、僕は、5年前に交通事故死した父子の乗る不思議なワゴンに拾われた。そして-自分と同い歳の父親に出逢った。時空を超えてワゴンがめぐる、人生の岐路になった...
タイトルとURLをコピーしました