管理者Sの読書録 #27
権力のテクノロジーと自己のテクノロジーのはざ間で
歴史研究は、ある社会や文化のなかに存在するさまざまな発言行為のかたまり(アルシーヴ、資料集成)がどのようなシステムによって生まれてくるのかを探ることなのだ。むろん、自分個人の一切の発言の集合でさえ膨大すぎて収集することは不可能だろう。しかし、できうるだけの資料を集め、資料と資料とをぶつけ合わせて、そうした発言行為が生み出されてきたその時代の、その社会の無意識の構造(システム)を明らかにすること、これこそが、フーコーが志向した「考古学(アルケオロジー)」なのです。
桜井哲夫(2001)『知の教科書 フーコー』講談社
『観光のまなざし』冒頭で、Foucaultによる『臨床医学の誕生』が引用されているのは有名だが、その一方で、管理者は、Foucaultの著書を読破した経験がない(『監獄の誕生』にはチャレンジしたが、挫折した)。そんな弱々管理者の理解を整理してくれたのが、本書『知の教科書 フーコー』である。Foucaultの思索をできるだけ一貫した糸に繋ぎ、かつ平易な文章で概念説明がなされていたので、入門書として十分な一冊だったと思う。かつて中山元氏による『フーコー入門』(ちくま新書)も読んだが、それに比しても、かなり端的にまとめられていた印象だ。
「朋友愛(アミティエ)」なる用語は初見だったが、かかる概念が、彼の哲学の終着点をなす考えであると思われる。個ではなく関係を、定点事実ではなく言説等のシステムをというように、Foucaultは、自由な社会ネットワークを文化的土台として把握し、静的で実定的とされる存在をとことん疑う姿勢を見せている。特に自身の性的思考に対して社会蔑視・差別を受けたことが、時代の「無意識的な構造(規則)」に着目する契機になったのだろう。
それにしても、Foucaultの哲学はあまりに暗い。というよりも、権力批判を例証するための、言わば結論ありきで歴史研究をしているようにも見え、閉塞感を覚えてしまう。「今、ここ」も常に揺れ動いているはずなのに、ある一点の事実だけを措定するために「考古学」の手法を用いるのは、どこか矛盾を感じてしまう。例えば、監獄の構想を「最初」に試みたのがベンサムであるというような(p. 67)、まるで犯人捜しをするがごとく、歴史事実の一点にだけフォーカスした思索は、関係性や社会システムを重視する「考古学」とは相反するかに見える。
より課題と感じるのは、われわれの意識や社会の根底には構造的な権力があると措定してしまうと、われわれの「自己」をどのように規定すべきかが判然としなくなる。Foucaultの議論に則ると、まるでわれわれは機械のごとく社会に操られる存在であり、〈わたし〉というものが全く存在しないというような思索に結びついてしまう。生きづらさの根底を探る哲学のはずが、探れば探るほど、その対極にある幸福や自由が打ち消され、権力に縛られた生きづらさだけが前景化してしまう袋小路に入っている。この点で、HabermasによるFoucault批判は的確なものだ(p. 133)。Foucault自身も、かかる「権力テクノロジー」と「自己テクノロジー」の相克を考え抜き、キリスト教の倫理観にその問題所在を位置づけんとしたようだが、説得的な議論にはなっていないように思う。本書の結論も「自由に生きよう!」だけでは、Foucaultの議論だけ読まされて、外へと放り出された気分になってしまう。
個人的なキーは「まなざし」論がルソーにまで遡ること(p. 61)、「観光の終焉」は「人間の終焉」にヒントを得ていたことであった。いい加減、原著にもチャレンジしないとな…
