管理者Sの読書録 #29
選択と約束の偶然性
選択とは偶然を許容する行為であるし、選択において決断されるのは、当然の事柄ではなく、不確定性/偶然性を含んだ事柄に対応する自己の生き方であるということ。〇〇な人だから△△を選ぶ、のではなく、△△を選ぶことで自分が〇〇な人であることが明らかになる。偶然を受け止めるなかでこそ自己と呼ぶに値する存在が可能になるのだと。
宮野真生子・磯野真穂(2019)『急に具合が悪くなる』晶文社(p. 229)
本書『急に具合が悪くなる』は、九鬼周造研究をしてきた哲学者 宮野真生子氏と、医療人類学を専門とする磯野真穂氏の書簡によって構成された一冊である。宮野氏と磯野氏の関係は、宮野氏が、癌の発症で医者から「急に具合が悪くなる」かもしれないと宣告された後からスタートする。その後、宮野氏の死までの約3か月間にわたって取り交わされた両者の書簡が、本書のベースになっている。
本書末において磯野氏は、「時に悲壮感漂う、ただならぬレベルで深いものを感じたのではないか」と書かれているが、「悲壮感」というよりも、もっと明るい何かを感じたように思う。それは、磯野氏による直球ストレートの言葉と、宮野氏による美しいコントロールによって紡がれた言葉のキャッチボーを、河川敷の土手から眺めているような、そんな青春の一枚を見ていた気分になったからかもしれない。
本書のテーマは「選択」である。観光経営の文脈では、手段・目的の階層構造による意思決定であるとか、データサイエンスにもとづく観光地経営であるとか、兎角、いかにリスクを排除し、ステークホルダーにおいて合理的な選択ができるかが議論のメインになっている。無論、地域創生を「目的」に観光を「手段」として活用する観光地側にとって、その「目的」に向かって最短距離で到達すること、すなわちいかに合理的選択をするかは焦眉の課題であるし、否定するつもりは一切ない。しかし管理者は、いつもどこで、かかる思索を無機質なものと感じていた。観光地を構成するのは心をもった個々人間であるわけで、機械システムのごとくまるっと地域を把捉する考えには、違和感を覚えるのである。だって、われわれの人生って、「偶然性」に満ちているはずだから(宮野氏は「リスク管理社会」を「妄想に取り憑かれた薄っぺらい時間感覚」であると言及している(p. 198))。
選ぶとは能動的に何かをするというよりも、ある状態にたどりつき、落ち着くような、なじむような状態で、それは合理的な知性の働きというよりも快適さや懐かしさといった身体感覚に近いのではないか、そして身体感覚である以上、自分ではいかんともしがたい受動的な側面があるのではないか、と。
宮野真生子・磯野真穂(2019)『急に具合が悪くなる』晶文社(p. 51)
死が差し迫った宮野氏の言葉は、重い。構造主義やポスト構造主義者のように、何でもかんでも「自由に生きろ!」を宣言するわけではない。人生は、もっと「受動的な側面」があるはずだし、「合理的な知性の働き」が機能しない中で過ぎ去るものだろうと。
かかる「偶然性」をいかに哲学するかについて、明快な答えは提示されていないが(提示できるはずがないが)、宮野氏はここに他者の存在を挙げている。
偶然性を生み出すことが出来たのは、自然発生だけではなく、そこに私たちがいたからです。それぞれに引き出す勇気をもち、偶然を必然として引き受ける覚悟をもって出会えたからです。
宮野真生子・磯野真穂(2019)『急に具合が悪くなる』晶文社(p. 234)
他者と出会うのは「偶然」だけれども、その「偶然」を可能にしているのは他者があってこそである。そして、その「他者」と「偶然性」に満ちた未来に向けて冒険すること、これを宮野氏は「約束」と呼んでいる。「約束」は「今、ここ」の人に対して行うものである。リスクに基づいて、未来を予測して「選択」するものではない。本来の「約束」は、合理的選択に基づくものではないはずである。
人間がいるからこそ「偶然性」が生まれ、そして「約束」をするのに、なぜ、人間によって構成される地域において「リスク管理」に徹底すべきとする観光経営の思索が生ずるのだろうか。確率でしかないはずのデータで、なぜ地域がまとまるなんて粗雑なことが言えるのだろうか。管理者が長年抱いてきた疑問が、本書を通して少し晴れた気がした。
書簡の中で頻繁に登場する「死」なる言葉だが、宮野氏の「死」については、直接的に言及されない。宮野氏と磯野氏が「魂を分かち合うこと」が出来たからこそなのだろうか。もう少し歳を取れば、読み方も変わってくるだろうな。
