管理者Sの読書録 #33
地域社会から近代社会システムの改革を遂行する
近年の〈地域〉への認識の変化は、… グローバル化の進展、大量生産・大量廃棄型生産の行き詰まり、環境問題への関心の増大、近代政治システムの限界等、近代社会システム全体の改革の必要という当面する大きな問題が、じつは、〈地域〉の再生ないし活性化、換言するならば、居住地を中心とする「共」の再構築抜きに解決しえないという新しい自覚に由来するという点で、新しい変化といいうるものである。すなわち、近代社会システムの改革は、このシステムの基盤をなす〈地域〉の改革を抜きにありえないこと、あるいは、〈地域〉の改革をテコに近代社会システムの揺らぎを拡大しつつ、より大きな改革へ結びつけていくこと、このような自覚に立脚した、〈地域〉の重要性の再発見なのである。
森岡清志(2008)「〈地域〉へのアプローチ」森岡清志編『地域の社会学』p. 16
本書『地域の社会学』は、近代社会システムの弊害を、かつての地域社会のあり方を見直すことを通してその解決の糸口を見出さんとする、典型的なコミュニティ論の行論が用いられた入門書である。著者らの問題意識として、現代社会において〈地域〉なる概念の無用性実感が拡大している背景には、「都市的生活様式」の定着化による住民間における共同処理の大幅な縮小がまず挙げられ、そのことによる地域社会内でのつながりの希薄化、及び共同性の低下に伴って諸種の課題が噴出しているという点が議論されていた。具体的には、子育ての問題、教育の問題、高齢化の問題等で、いずれも地域社会における問題処理システムが機能不全になることによって、かかる問題が深刻化するであろうことが指摘されている。
管理者は、かかる問題意識を真っ向から否定するものではない。実際、管理者が所属する和歌山大学でも「地域とのつながり」は教育ポリシーとして高々と掲げられている。しかし地域社会を過度に称揚する行論は、閉塞感を抱かざるを得ない。例えば、地域社会における教育のあり方を議論する文脈の中で、以下のような指摘がなされている。
重要なのは、親が属する社会的世界において、子どもがよりよい子どもに育つことである。親はふつう自分が属するか、あるいは属したいと考えている世界へ子どもを導こうとする。…ところが、日本の近代はこのような親の願いをそういったいに「保守的」と断じて、子どもの階層的な上昇を望まない親は、親ではないかのようにいってきたところがある。結果として子どもを受験競争へとかりたてる親のあり様は、本当の意味で自分の子どもを育てたいという親の願いが現れたものといえるのだろうか。このような問題は、子どもをどこで育てるか、ひいては地域とどのように関わるかという問題へとつながっていく。
玉野和志(2008)「学校と地域」森岡清志編『地域の社会学』p. 177-178
上記の指摘は、かなり偏向的な解釈であると理解するが、差し当たって以下の問題点を指摘しておきたい。すなわち、親の職業を子どもが継ぐことを「よい」こととして把捉している点、またその対立事項として「受験競争へとかりたてる親のあり様」を置いている点である。(著者のような)「受験戦争」を戦ってきた人間ならいざ知らず、必ずしも全ての親が、自分の職業を子どもに継いでほしいとも、また子どもに社会的な上昇を欲しているわけでもない。むしろ、生まれてから死ぬまでの一生の間、子どもを地域に縛り付けておくのは、環境の変化を恐れた「保守的」思想の何ものでもないし、兎角、閉塞感を覚えずにはいられない。
地域社会のつながりが希薄化している背景に「都市的生活様式」の定着化があるのは事実であろうが、それを諸悪の根源とするかのごとき行論は看過できない。都市化をあらゆる問題点に還元してしまう思考は、あまりに短絡的である。より理解に苦しむのは、地域社会を称揚する著者らが、どこまで地域のことを理解しているのかということである。著者らの所属を見ると、その多くが「都市部」に拠点を置く大学である。「都市的生活様式」にどっぷり浸かった教授が、綺麗ごとを並べているようにしか思えないのである。
地域社会を離れる多くの人々は、その地域の因習的なつながりを忌避し、また物的な豊かさが設えられた都市への憧れを抱いてるからではなかろうか。事実、管理者が関わっている与論島の人々が、東京に出た時にいつも嬉しそうな表情をしているのを見るにつけて、島における閉鎖的なつながりから解放されたことの表れを感じとってしまう。そうした彼/彼女らの行為を批判する準備はないし、著者らにもその資格はないはずである。
所詮は綺麗ごと。問題意識は共有するものの、こうした「綺麗ごと」が拭い切れない限り、この分野の発展はかなりむつかしいものと感じたところである。
