管理者Sの読書録 #34
日本社会に刷り込まれた鉄道のリズム
大都市の鉄道員にとっては一秒を惜しんで列車を発着させることが常識となり、他方では、鉄道空間ではテンポよく行動することが、都会の乗客の常識となり、公共スペースでの振る舞い方となってゆく。「鉄道空間ではすべては順調でなければならない」。それは日本の社会のルールのようになってゆき、日本社会の一つの美意識のようなものにもなってゆくのである。
三戸祐子(2001)『定刻発車』p. 104
わが国の鉄道は、異常なまでに時間に正確であると言われている。数分の遅れは、日本人を過度にイラつかせると同時に、社会全体にも麻痺を起こす。時間を徹底的に管理する企業体制、モビリティの活性に伴う輸送システム間同士の接合等は、鉄道の正確さによって成立している。したがって日本社会、とりわけ都市部においては、鉄道が人々の生活のリズムを形成しているといっても過言ではないだろう。本書『定刻発車』は、かかる鉄道の正確さが実行できている背景を、特に鉄道の技術面から考察した一冊である。技術面にフォーカスしてはいるが、日本社会の構造を逆照射できる点で良著であった。
全体的に本書は、鉄道員を賛美する行論が一貫して取られている。「鉄道員の懸命な努力」といった言葉に象徴される通り、鉄道員の精力的な勤務姿勢によって(かなりブラックなのだろう)、わが国の鉄道は正確に運行できているとの行論が取られている。しかし裏を返せば、「鉄道員の懸命な努力」がなければ、わが国の鉄道は破綻しているに違いない。実際、著者が「大都市周辺の鉄道は、世界の常識からすれば、とうに”限界”を超えるレベルまでたくさんの列車を一本の線路に走らせている(p. 263)」と指摘するように、1つのダイヤが機能不全となれば、他の鉄道ダイヤにも影響を及ぼすというような綱渡りのようなシステムを、鉄道員という「人間」が一身にして支えているのである。こうした不確実性と脆さが体現された鉄道システムは、日本近代社会システムの縮図を見ているかのようである。
そして不運なことに、本書刊行の4年後に、福知山線の脱線事故が起きてしまう。当事者でないから軽々しく言えるが、限界を超えるレベルで運行されていたわが国の鉄道システムの状況に鑑みれば、いつかは起きるであろう事故であったと思う。メディアでは、列車運転士やJRの悪質な教育体制に問題を仮託しているが、元を正せば、わが国の社会システムにその原因があった。数分遅れただけでイライラし、駅員に怒号を浴びせる人間がいるのは、やはりおかしい。鉄道の正確性を所与とし、鉄道のダイヤをもとにわれわれのスケジュールが緻密に組み立てられていくというのは、あまりに余裕がなさすぎる。われわれの時間感覚は、本当にギリギリに仕立てられている。本書が福知山線事故の布石となっていたのは心を痛めるが、改めて鉄道の正確さを「異常」なものと把捉する心性が必要になるものと思う。
日本人は本当に勤勉だと思う。時間にもしっかりしている。日本経済の成長は、その国民性によって担われてきたのだろう。しかし国際情勢や技術革新等による社会変化によって、われわれも変化が求められている。まずは時間に余裕を持とう。前時代よりも便利になったはずなのに、いつまでも時間に追われた生活をしている日本人は、やっぱりおかしい。
