『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに』貴戸理恵(2011)岩波ブックレット

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管理者Sの読書録 #37

個人にも社会にも還元できない「関係性」の中の生きづらさ

「関係的な生きづらさ」とは、自己責任にも社会要因にも還元されない、個人と他者や集団との「あいだ」に生じる失調です。つまり、「働きたくても仕事がない」(失業)、「どんなに一生懸命働いても生活がまわらない」(ワーキングプア)といった労働市場の問題とはひとまず切り離された、「働くことに踏み出せない」「働き始めてもつらくなって辞めてしまう」という事態です。そのため「甘えている、意志が弱い」としてしばしば自己責任と見なされます。しかし、本人にとっては「ぎりぎりまで頑張ってもどうにもならない」という圧倒的な経験であることが少なくありません。ここでは、そうした何らかの理由で仕事をしない/できない状態にある人に対して、「コミュニケーション能力がない個人の責任だ」とか、「不況や不安定雇用の増加という社会の責任だ」という言い方をできるだけ先送りして、問題をその人とつながりを持つ職場との関係性において捉え、「どのような経験が、働くことからの撤退につながったのか」「どのような場であれば、働くことに参入しうるか」と問うていきたいと思います。

貴戸理恵(2011)『「コミュニケーション能力がない」と悩む前に』p. 10

本書『「コミュニケーション能力がない」と悩む前に』は、「不登校」と「引きこもり」の事例を中心にしながら、現代社会において「コミュ力」等の「〇〇力」が要求されている、その社会構造を模索した一冊である。本書の要諦は「社会/個人」の二項対立を脱構築した思索を提供することで、かかる二項のあわいに存在する「関係性」に着目しながら、「〇〇力」に仮託されている社会の生きづらさを探求している。ブックレットであることから内容が薄いこと、「関係性」という曖昧な概念を中心化したことによって却って言語化に限界を生じさせていることなど、いくつかの課題点を感じたが、読み物としては良著であったと思う。

「社会性」なる言葉は、極めて多義的なものである。本書で取り上げられている「不登校生」のように「社会から撤退している」人における「社会性欠如」と、管理者の性格に現れているような「社会性欠如」とは、質的に違うように思う(その意味で「関係的な生きづらさ」は質的次元において千差万別である)。しかし他者から思われるのではなく、自分自身の内面において社会性がないと感じている人は、共通して、「『社会性』がないのではなく、むしろ過剰なので」あろう(pp. 26)。人からどう思われているのかを常に意識し、かついわゆる「社会人基礎力」を獲得できていない自己のあり方と葛藤しているからこそ、社会性がないと自覚しているのであるが、かかる心性は、それだけ漠然とした「社会性」なる概念を常に意識していることの裏返しとも言える。「関係的な生きづらさ」は「深く考えてはいけない」ところに表出するという意味で、大変にむつかしい問題だと感じたところである。

本書では、社会から降りる選択をした人と、競争に勝ち続けている人との関係性についても触れられていた。本書では、その両者が聞く耳を持つことを通して解決の糸口を探そうという、ありきたりな結論で終わっていたが、個人的には、著者自身の経験からより深堀りしてほしかったところではある。著者の経歴を見るにつけて、専任大学教員になれているというのは、ある意味でポスドク競争に打ち克った人物であるといえるし、また著者の出身が東大であることに鑑みても「受験戦争」に打ち克ったと人物と言えよう。終章において、著者自身が小学校の時に不登校だったことが書かれているが、広く一般市民から見れば、著者は「勝ち組」の類であると思う。そうした「社会的撤退者」と「勝ち組」の2つを経験を有している著者だからこそ、この両者におけるより良い関係性を描出できるものと思う。

教員キャリアに就けたのは「偶然の結果」だったなどと、そんなありきたり思索ではなく、研究者界隈を含めて「選んだ、でも追い込まれた」人が多くいる現状を、当事者の視点からより徹底的に議論してほしいところである。

『「コミュニケーション能力がない」と悩むまえに――生きづらさを考える (岩波ブックレット)』(貴戸理恵)の感想(22レビュー) - ブクログ
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