『日待・月待・庚申待』飯田道夫(1991)人文書院

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管理者Sの読書録 #43

日待・月待信仰の起源を再考する

「日待」なる特定の祭事は存在しない。はじめにあったのは国家主導の仏事である三長斎月の法事で、これらには特に名称はなかったようである。呼ぶとすれば ”斎月のおこなひ” であったろうか。これは月を拝しての ”おこなひ” であったから、いつ頃からか「月待」と俗称された。この行事の期間は長く、終わりの頃は月の出がうんとおくれ、夜明け近くになる。そこで市井ではこれを「日待」と称し、後には ”宵越し” の意味で使った。

飯田道夫(1991)『日待・月待・庚申待』人文書院(p. 125)

本書『日待・月待・庚申待』は、既往研究で明らかになっていない「日待」「月待」のルーツを、近代以前の書籍から再考しようとした一冊。著者は、日待・月待は同根の信仰であることを所与とした上で、特に民俗学研究の文脈で日待、月待の「マチ」を「祭り」の転訛として把捉していることに疑問を付し、字義通り「待つ」として理解すべきことを主張する。また、修験道の五流尊瀧院における法会で日の出を拝することなく行事が終了していることから、本来は夜を徹して行われることが本義であった祭事が、市井への広がりの中で「待つこと」として理解されるようになったことが示唆されていた。国文学に明るくない管理者でも読みやすかったので、月待信仰の入門書としては参考になるものと思う。

ただし、筆者が在野研究者であることに依るのか、首を傾げてしまいたくなるような行論がかなり目についた。先述の通り、本書のスタンスは民俗学、特に古典をなおざりにする柳田批判に立脚しているが、本書の核となる「帝釈天の宝鏡説」に関する文献を「私自身は読んでいない(p. 81)」など、自らで特大ブーメランを投げ飛ばすことを書いている。他にも著者は、庚申信仰が日待・月待に先んじているという民俗学研究に対して、「下層の方が古い、という地質学のような説(p. 37)」であると批判するが、上述の五流尊瀧院における法会の文脈で「初めに同院の日待ありき、で、これに倣って民間でも日待が行われるようになった(p. 67)」など、「地質学のような説」を提唱しておられる(おまけに著者は、かかる行事を見たことがないという)。

最大の疑問は、「満月の頃のオコナイが『月待』で、その一環としておこなわれた法楽が『日待』であった」なる指摘である。上述の通り、筆者は日待・月待における「マチ」を「待つ」ことと解している。しかし、満月において「マツ」とはいかなることなのか。日待・月待のルーツを「三長斎月」に求めているが、かかる仏事は十五夜までのオコナイであって、時間帯として「マツ」程のこともなく月は上ってくる。この点の留保として「六斎日」を挙げているが、論拠もなく「同根(p. 82)」であるという理由から、二十三夜などを説明している。そもそも、僅かな文献渉猟から月待信仰が正五九月にされていると断定し、そこからルーツを同時期に行われていた「三長斎月」に求めるのは、少し無理があるのではなかろうか。

また、柳田民俗学の実証性のなさを批判しながらも、例えば十三夜信仰を「欠けたところのある十三夜月を鏡とみるのは理に合わない気もするが、いったん月は宝鏡とみなされてしまえば、あとはどんな形をしていても宝鏡には変わりない(p. 134)」など、かなり「実証性」に欠いた、暴論とも言える指摘がなされている。

他にも、筆者の基本的な理科知識の乏しさを感じさせる行論が鼻をつき(eg., pp. 135, 148)、実際に月待をしたことがあるのかと疑いたくなってしまった。結局のところ、小花波平六氏が言うように、「日待の起源について鉄証をあげて明快な説明をするのは困難(p. 36)」なのだろう。

『日待・月待・庚申待』(飯田道夫)の感想 - ブクログ
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参考

なお、筆者のものかは不明だが、本書5章と23章は以下のリンクから閲覧できる。

日待・月待
二十三夜待
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