天文民俗調査 #2(有田市矢櫃)

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有田市矢櫃(2022年1月21日)

西洋文化が流入する以前の日本では、各地域において独自の天文民俗が育まれてきた。それは星の動きを目安にして作物を植える時期を知る、あるいは漁撈時の方位や時間を把握するなど、人々の生活文化に密着しながら発達し、かつ口承によって伝承されてきたものである。しかし、近代化以降の理科教育の普及やテクノロジーの発達等によって、こうした天文民俗の伝承が途絶えつつある。かかる問題意識に立脚し、野尻抱影、内田武志、桑原昭二、北尾浩一らによって、わが国における天文民俗調査が実施されてきた。

筆者はこれまで、北尾浩一氏からの指導のもと、鹿児島県与論島における天文民俗調査を実施してきたが、筆者の所属大学のお膝元である和歌山県下での調査は行ってきていない。与論島調査で実感したことだが、かなりの話者にあって、天文民俗を記憶している人は少なくなっている。一縷の望みにかけて、しかし早急に民俗調査を進めなければならないと感じている。

なお和歌山県下における天文民俗調査は、すでに桑原昭二氏によって実施されている。正確な調査時期は不明だが、恐らく1960年代後半でないかと思われる。桑原氏による調査結果は、

徳田純宏・高城武夫(1982)『喜の国』ゆのき書房

に集録されている。

執筆者はこれまで、和歌山市雑賀崎、田ノ浦、海南市塩津、戸坂で聞き取り調査を行ってきたが、目ぼしい結果を得られていない。その要因に、和歌山の場合は「山立て」を中心とした漁が行われてきたこと、また現状の漁業関係者の多くが LORAN C やGPSを搭載した漁業経験を持っていることに依るものと考えられる。実際、60代の戸坂の漁師は「山が近くて、星なんか見えへん」と語ってくれた。

「山立て」について『和歌山市民俗歳時記』には、「広い海の上で、魚のよくとれた位置を、島や岬、陸上の立木、遠くの山の重なり具合などを、二つ以上の方角を見通して覚えておくこと」とあり、「やまがえらい」ことを、すなわち「漁の名人」と把捉していたようである。

雑賀崎における調査でも、S37年生の漁師が「親父の時は山立てしよった。俺は15の時から船に乗ってる。その時に山立ては習ったよ。今も簡単なのやったらできる(2022年6月19日: 筆者による聴き取り)」と語るように、少なくとも昭和初期までは山立てが行われていたようである。

しかしいずれにせよ、これまでの調査において天文民俗に関する語りは聴取できずにいた。

今回調査に訪れたのは有田市矢櫃集落である。県道171号線の西端に位置する矢櫃地区だが、集落内へは車どころか原付で進入するのも困難なほどの道幅で、急峻な坂道に家屋が密集して建てられている。また眺望の利く県道沿いには、廃墟と化した有田観光ホテルが残っている。当時はロープウェイに乗って温泉入浴する「宇宙アポロ風呂」が存在したらしい。最近では、和歌山大学の学生が矢櫃に入って、当該地域における地域づくりのあり方を模索しているようだ(詳細はこちら)。

矢櫃の歴史について『有田市誌』によると、元和年間に徳川頼宣が、古座町津賀の漁夫である茂兵衛と茂太夫の二夫婦に漁船を与えるとともに、諸役御免の地として移住を認めさせたことが、当地における歴史の始まりであるという。明治期には約80戸の家屋を数えたが、それらは全て茂兵衛と茂太夫の子孫によって構成されていたという。また矢櫃の発展は漁業増産と軌を一にしており、紀州藩による庇護の下で、相当な横暴が罷り通るほど、他地域の漁場を斡旋しながら拡大してきたことが記されている。

矢櫃には地域特有の行事がなされていた。「お日待祭り」である。『有田市誌』によると、毎年旧暦1月9日を縁日として定め、集落の青年たちが朝早くから海中に入って心身を清め、南竜神社で祓いを受け、翌日早朝に下津の長保寺に参詣したという。かかる行事は、日本全国で行なわれている日待・月待・庚申待との共通性があるようだが、徳川との関連の中で生起し、また海中に裸で入る独自性を備えているという特徴がある。ちなみに、お隣研究室の木川剛志先生も、この祭りに参加しているよう(写真があった)。

境内「お日待ち祭り」の説明(2023年1月22日撮影)
境内の石仏 千手観音か?(2023年1月22日撮影)

ところで、筆者が矢櫃を選んだのには理由がある。先の桑原昭二氏による湯浅町の記録にあって、以下の語りに疑問を感じたからである。

「大ぼしさんに負けんくらい大きな星ぢゃがのーし、衣奈の上に出たったら飯を炊きよったんぢゃ。」…老母の話では、秋十月の早朝五時ごろに、シリウス星が真南に見えるので、衣奈の上に出たのを見計らって、朝飯を炊いたことでしょう。

徳田純宏・高城武夫(1982)『喜の国』ゆのき書房(p. 204)

桑原氏は、かかる「衣奈のまたたきぼし」をシリウスと解しておられる。「衣奈」とは由良町の地名だが、湯浅から見ると南西に位置する。また老母は、「大ぼしさんに負けんくらい大きな星」と語っていることから、「大ぼし」こそがシリウスであり、「衣奈のまたたきぼし」は別の星ではないかと思われる。あくまで私見だが、明けの明星でなかったかと思う。いずれにせよ、「衣奈のままたきぼし」とは何かを探りたいという思いから、衣奈の真北に位置する矢櫃を今回の調査地とすることとした。

矢櫃の漁港は予想以上に閑散としていた。漁港には数隻の漁船しか停まっていない。浜で談笑していたS31年生とS32年生の男性に話しかけると、今の矢櫃には1人しか専業漁師がいないらしい。彼らは矢櫃生まれで、生家もまだ所有しているが、現在は箕島市街地に住んでいるという。彼らに天文民俗について訊ねてみたが、「昔の人じゃないと分からんやろうな」という回答であった。

彼らと1時間ほど話をしていると、S17年生の男性が漁から帰ってきた。立派な「メジロ」を釣り上げていた。彼によると、彼の父親は「山食べ」の名手であったらしく、本人も幼いころはサザエやアワビを毎日獲りに出かけていたという。ただ彼も、天文民俗に関する話は知らないようで、なかなか引っかかりがつかめない。

帰港する漁師(2023年1月22日撮影)

もう無理かと諦めかけていた時、矢櫃で唯一の専業漁師が漁から帰ってきた。S12年生の86歳だが、現役漁師である。物静かな人だが、耳も語りもはっきりしていた。3匹の大きなサワラとアマダイを獲ったと、筆者に見せてくれた。

矢櫃で唯一の専業漁師が獲ったサワラ(2023年1月22日撮影)

早速、天文民俗に関する質問をしてみる。以下は語りの抜粋である。

筆者「夜に漁に出られる時に、例えば山を見てとか、星を見て漁に行ったという話を聞いたことはありませんか?」

古老「星を見てか? そうや星を見てや。きたのほっさんを見て、慌てんように、きたのほっさんを見てや。どんな星いうて、きたのほっさんちゅうのは、いっこも動けへんちゅうねな。山が分からんいう時は、きたのほっさんを見てな。ここ(矢櫃)に帰って来る時に見るんやな。山の見えんところ、遠いところに行ったらな」

筆者「きたのほっさん以外に、何かお星さんのことをご存じですか?」

古老「他のほっさんいうのは、みんな動くらしいわ。昔の人が言うのにはな。だから山やな。とにかくな、きたのほっさんはな、大きい星や。昔の人はそう言いよったな」

2023年1月22日聴き取り

古老によると、自分では星見をした経験はなく、羅針盤を使っての航行が主であったが、先輩漁師から「きたのほっさん」について話を聞いたことがあるという。きたのほっさんは、北にある動かない大きな星で、矢櫃に帰港する際に当てにしたらしい。北極星に間違いないだろう。ただし、基本的には「山食べ」が中心で、山が見えない沖に出た時にしか星は見なかったそうだ。また本調査の主眼であった「衣奈のまたたきぼし」については、聞いたことがないという。

和歌山での天文民俗調査がずっと坊主で、やっと出会えた嬉しさから、矢継ぎ早に色々と聞いてしまった。今思えば、彼の生い立ちから、漁の仕方、先輩漁師との付き合い方など、もっと話者に寄り添った聴き取りをすべきであったと反省している。星のことばかり聞いても、なかなか思い出してはもらえない。湯浅町では桑原氏によって「高田ぼし」という、カノープスと思しき語りが聴取されているし、北極星であれば「徳蔵」の話も聞いてみたかった。聞き方に大きな課題があった。

しかし矢櫃での調査より、まだ和歌山県下においても天文民俗が生き残っていることが分かった。特に、昭和10年代生まれの漁師であれば、かかる語りをしてくれる可能性がぐっと上がりそうだ。今回の反省点を生かしつつ、他地域における早急の調査が求められる。また今年は叶わなかったが、来年は矢櫃の「お日待祭り」に参加してみたいものである。